本社の創建は遥か歴史のかなたにかすみ、詳らかではありませんが、往古より古河郷上気多榊ヶ丘(現在地)に鎮座せる国史所載地で斐太十神の一社に数えられ、上気多村という地名も社名から興ったと云われています。
御祭神は大己貴神(大国主神)並びに御子御井神を主神とし、外に相殿として天照大神外三柱の神々が奉斎されています。
時代は下がって明治維新後、明治3年、気多若宮神社と改称し、同4年には郷社と定められ、同40年3月神饌弊帛料供進神社に指定されました。
その後大正15年2月11日に県社に昇格、現在神社本庁所属の特別金弊社として広く一般の崇敬を集めて居ます。
古川祭を執行する気多若宮神社の氏子は、神社が鎮座する上気多と市街地の地域で12組に分かれており、運営は神事取締・組総代・屋台主事・起し太鼓主事によって行われています。
12組とは屋台を所持する10組に加え、闘鶏楽組と宮本組のことをいいます。
屋台組
屋台を所有する10組です。各組をクリックすると屋台の詳細情報へ進みます。
闘鶏楽組(栄町)
闘鶏楽について
闘鶏楽は、一部の舞人は〆太鼓を胸にし、大半は昔から鉦をつり、それぞれがバチで叩いて演奏する舞楽である。古くは「鳥毛うち」ともいわれ、その由来は舞人が頭にニワトリの羽をかぶったことによると推定されている。現在は、一文字笠を頭につけ、白地に赤や紺色で鳳凰や竜を染めぬいた衣装を身につけて、白足袋と草履といういでたちである。鉦は、銅鑼に近い盆に似た円形で、重量はかなり重い。直径20㎝から大きいのになると30㎝くらいまで三種類ばかりあるようで、舞人の体格に応じたものが使われる。材質は、銅と鉄の合金で梵鐘などと同じものとみられるが、個々の音程がまちまちのため、叩かれる幾個かの鉦の合奏は、甲高い不協和音となって響きわたる。その音響とリズムから「カンカコカン」とも呼ばれている。古川祭に闘鶏楽が演奏されるようになったのは大正13年からといわれる。当初、闘鶏楽といわず、鶏闘楽と呼んだといわれるが、その詳細はわかっていない。また、ある時期に「闘鶏楽組」で、屋台創建の発案があったものの賛成者が少なく、実現に到らなかったと聞くが詳細は不明である。
宮本組(上気多)
宮本組の獅子舞について
気多若宮神社に限らず、高山・古川近辺に存在する神社の大半が、神への奉仕として舞う獅子舞を徳兵衛獅子と呼ぶ。江戸時代に江名子村の松原屋兵助が完成した「兵助獅子」に始まり、明治になって、下江名子のはげ下徳之助「通称徳兵衛)が習得したが、徳之助は獅子舞の技術にすぐれ、笛の名手であった兄とともに演ずる妙技が賞賛されて、「徳兵衛獅子」と呼ばれるようになって飛騨各地へ普及したもののようである。古川祭に舞われる獅子舞には、上気多の宮本組に所属するものと、屋台組神楽台に所属するものとがある。いずれも徳兵衛獅子の伝統を汲むものであり、どちらも笛・太鼓にあわせて舞う。宮本組の獅子舞は、神輿の出発にあたり拝殿下の広場で、五頭の獅子による舞を奉納したあと、神輿行列に付いて回るのに対し、神楽台の場合は屋台と行動をともにしている。